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【雑感】海外脱出のための受験ってなんだ?

海外脱出のための受験って何だ? その他

最近、Twitterの受験垢界隈で海外脱出の話が出ていた。僕が見たのは子の海外脱出のために海外進学や国際交流に力を入れている学校を志望校に、というツイートだったが、これには違和感を覚えた。違和感というのは海外指向なのに日本の受験に力を入れることについてだ。僕は海外脱出と国内の受験は相性が悪いと思っている。いくつかの観点について書いていく。

まず第一に、日本の受験を経ることによって染まりがちな価値観や思想が問題である。特に昨今加熱している小学校受験や中学受験では、一般論として親は質の高い教育やより良い環境を求めて、つまり子の可能性を広げるために子の受験に心血を注いでいるのだろう。ところが、それらの受験を経て行く学校は特定の層の子女が集まるモノカルチャーな環境であり、また、受験の過程では偏差値至上主義やブランド志向(=ランク下位の学校・進路には行きたくない、ともすれば見下すような感覚)が育まれやすい。この点は海外で生きていくにあたって求められる異なる文化や価値観、考え方への受容や適応と相反することにならないだろうか。

次に、受験に力を入れすぎると、受験に必要なものに重きを置き、そうでないものは軽んじられがちである。そして将来に役に立たない回り道は敬遠される風潮がある。日本で一般的に許容されている回り道は、大学受験浪人と事情のある大学留年で計2年までだろう。しかし、他の国で人生を過ごすにはある程度回り道を許容できないとしんどいものだ。ただでさえ外国人として生きていくことにハードルがある所に、受験で育まれた「回り道は避けたい」という思想は強烈なプレッシャーを生んでしまう。そして欧州諸国を中心に、回り道を是としそのように社会が回っている国も多く、そうした国ではそのプレッシャーはより際立つものとなる。また、海外かどうか以前に、そもそも役に立たないものを切り捨てる姿勢は人生全般への態度として良いものとは思えない。何が本当に役に立つかは簡単に判断できるものではないし、無駄なものが豊かな人生を作るという見方もできる。

最後に少し具体的な点になるが、受験にあたって力を入れがちな英語についても問題がある。それは、受験対策の一環としての英語学習と、海外脱出にあたって実用に耐えうる英語運用能力の構築との解離である。よく言われる「受験英語」の弊害というよりは、英語をコミュニケーションのためのツールではなく勉強する「科目」として捉えてしまう弊害、そして圧倒的な英語を使う機会の不足が問題だ。前述の通り、受験対策に最適化しすぎると受験に必要のないものはやらない(やらなくていい)という思想になってしまうが、それは英語を実際に使うことと相性が悪い。英語の実践機会を増やそうとすると、他の科目にかける時間がその分減る一方で、受験科目としての英語には直接寄与することは少ないので、受験対策に集中する場合に英語の実践機会が少なくなってしまうのである。個人的には昨今の4技能重視の流れによって、この点は自分が受験生の頃よりはかなり良くなったとは思う。それでも受験対策の一環として取り組むだけではまだまだ足りないと感じるし、何よりツールとしての英語という視点を見失ってしまう可能性がある。

英語に関連して少し話がそれるが、当たり前のことなのに見落とされがちなのが、言語は英語以外にもあるということだ。英語以外の外国語学習となると、日本ではともすれば無駄なものとして扱われがちであるが、世界では英語を母国語としない人の方が圧倒的に多く、英語以外の言語による営みが世界中に存在していることは紛れもない事実である。まずは英語を、という考えを否定はしないが、世界中の多様な言語とその話者に対するリスペクトは決して忘れてはいけない。子が海外に行くことを願うならば、この観点は是非持っていてほしいと思う。

話を戻し、以上を一言でまとめると、日本の受験に力を入れることは日本の価値観・常識を刷り込むことにつながりえて、それは極端な話、海外脱出の障害になりうると言うことだ。僕自身は子を海外脱出させようとは全く思わないが、子が海外の選択肢も取れることは大事だと思っている。そういう点では海外脱出の是非自体を問うつもりは無い。ただ、海外脱出と言うくらいなら日本の受験から足を洗うくらいの勢いがあっても良いくらいだが、そこまではしないとしても志望校選びをスタート地点とするのではなく、その大前提としている受験(小学校でも中学でも高校でも大学でも)からまず一歩引いて考えてみるべきではないだろうか。

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